犬山焼は今より凡三百年前元禄年間に始まる。その頃丹羽郡今井村の郷土奥村伝三郎なるものあり。同村宮洞に陶窯を築き犬山焼又は乾山焼と称し瀬戸風の飴色釉、黒色釉を施したもの又織部青流等の製出した。之れ犬山焼で今も同字に窯跡がある。故に奥村伝三郎は当犬山焼の陶祖とも言うべきである。
 犬山藩主成瀬氏深く之を愛し自ら陶窯を尋ね賞賛したと言う。伝三郎は亨保十五年没し其後子、源助(二代目伝三郎)孫、太右衛門その器後をついだが安永十年正月太右衛門の没後家運衰頽し終に廃絶するに至った。其後二十年を経て文化七年犬山本町の島屋宗九郎という者藩主に請い初めて丸山の地に陶窯を築く。之を御庭焼と称した。
 文化十四年錦屋太兵衛と言うもの島屋からその業を譲り受く、文政五年春日井郡志段味村より加藤清蔵という職工来たりて新製磁器を試む。その頃同郡瀬戸村の陶工川本治兵衛尋ね来り丸窯を築造し新製染付を焼き始む。後に至り松原宗兵衛、水野吉平の二人志段味村より来り清蔵に協力復興に力めた。宗兵衛特に赤絵に巧で、これより赤絵を犬山焼に加えその方法次第に発達した。
 天保六年名古屋から画工逸兵衛を招く。彼名を後道平と改む。彼風流にして犬山八景を始めて染付たるも彼である。
 画風真製呉洲に髣髴たるを以って署名でその発達はこの人の功によるものが多い。
 天保七年中城主成瀬正寿命じて春秋に因み光琳楓の花楓を描しめ称して雲錦手といい、城主自ら見本を描いて下興せらる。是れ後世人をして花楓は犬山焼の特徴の如く思わるるに到った。
 かくして犬山焼は風流韻致あるもの多く雅客の為に愛翫せられ世人に認められる様になった。










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